ルーシーによろしく。

 日常生活の中で使われ続けてきた器や道具は、風土に根ざした自然素材の美しさと優しさに包ま

れています。触れた瞬間に感じる手仕事のぬくもりは、現代社会の暮らしの中で忘れかけたものを思

い出させてくれます。

  柳宗悦の見出した「民芸」とは、貴族的な工芸美術と相対し、無名の職人による実用的で良質な

暮らしの必需品に宿る美の意味です。

 柳宗悦は大学在学中に、同人雑誌の会「白樺派」に属し、日本人の生活に則した道具、器、家具、

布、絵画に注目。「用の美」を唱え、いわゆる「民芸運動」を起こしました。大学卒業後、友人の英国

人陶芸家バーナード・リーチの助言で、英国ロマン主義期の詩人であり、画家でもあるウイリアム・ブ

レイクの研究に勤しみました。自らの「直感」を重視するブレイクの考え方に共感し、その後の柳思想

の基礎となりました。

 

 バナード・リーチは1887年香港で生まれ、幼児期を日本でcoper.jpg

ごしています。1909年に再来日して、柳宗悦と交流。約10年後

の1920年に、後に益子焼きを全国に知らしめす陶芸家濱田庄

司(当時26歳)と共にイギリスのセント・アイヴィスに帰国、日本

の伝統的な焼き窯「登り窯」を開きました。柳と同様に、必要以

上の装飾を避け、陶磁器が必要なのは、日用品として用を満た

す器の形状や感覚と主張、当時の欧米の陶芸家に大きな影響

を与えました。

 オーストリアのウィーン出身で、イギリスで陶芸活動をはじめた

ルーシー・リーもバーナード・リーチの影響をうけた一人です。

1989年、2009年には日本でも展覧会が開催されました。中国、

イスラム、ヨーロッパなど世界の陶芸の伝統を幅広く熟知している彼女が作り出すフォルムと色使い

に世界中の多くのファンは魅了されています。(青い器/ルーシー・リー作)

そんなルーシー・リーの元を 訪ね陶磁器製作を始めるのが、当時26歳のハンス・コパーでした。

二人はその後、柳宗悦、バーナード・リーチの温故知新的な考え方とは一線を画するヨーロッパの近

代陶芸の礎を築くのでした。

 

 近くの美術館でハンス・コパーの作品と出会う機会がありました。

ろくろで成形したピースを結合させる独特の技法で作り上げられた彫刻的とも言われる作品は単純で

ありながら、とてもデリケートな作風。鋭角な輪郭線と柔らかな曲線とが生み出すその美しさに、しば

し時の経つのを忘れてしまいます。

美術館でハンス109点の作品との濃密な交流は至福のひとときでした。lucie rie3.jpg

 

ちなみに妻の母はルーシー・リーに少し似ていました。 

 

 

手作りバットの恩恵

121.JPG  日本人の食事は変わってしまいました。明治、大正の頃の食事には大きな変化はないのですが、昭和になり、第二次世界大戦後の変化は顕著です。まず、主食であるお米の摂取量の減少。1965年(昭和40年)から2009年(平成21年)のわずか44年間で、摂取量は半分になりました。反対に増加したのが動物性たんぱく質と油脂です。

 医師の鹿島友義さんは、現代人と同じような食事をしていた平安時代の貴族達を「源氏物語」を通して診断しています。光源氏の母、桐壺の更衣はストレスによる「心身症」、正妻の葵の上は「糖尿病」」、親友の長男の柏木は「反応性うつ状態」・・・平安貴族と現代平成日本人との共通する病気から、その要因は、栄養の過剰摂取が推測できます。

 食事と同様に、私達の身の周りの物もずいぶん変わりました。きれいで、便利で、暮らしを楽しく華やかにしてくれる様々な生活用具があふれかえっています。モノはあふれているのに、買うモノがないと感じた1970年代の終わり頃から、日本人が大切に守ってきた生活具を再び家庭にとり戻そうと、日本各地を訪れ、多くの作り手の方々にお逢いすることができました。

 そんな仕事に関わろうとする私の背中を押してくれたのが、写真の今でも大切にとってある手作りバットの感触です。幼児サイズの暖かく、やさしい特注バットは父の家具工場で働いていた山本みっちゃんが作ってくれました。

 私の温故知新のきっかけは、多くのモノとの出会いから、そして40年後、食の温故知新 マクロビオティックの食事に出会うのでした。

 今日 3月21日は「用の美」を追い求めた思想家、柳宗悦(むねよし)の誕生日です。

 

 

 

 

 

 

 

3泊4日銀河系ツアー雑穀弁当つき

IMG_07.jpg 1957年の9月20日は、国産ロケット1号カッパーC型の発射

に成功した日です。ほぼ、50年後の今年、7年間、60億km

の長旅を終え小惑星探査機「はやぶさ」が小惑星イトカワの

サンプル採取して戻ってきました。

世界各国で宇宙開発が競争のように行われています。

未知なる宇宙へのトライアルは、かって魚が水中から陸上へ棲

むべく両生類に進化したトライアルに似ています。

 

 小学校6年生の国語の教科書に、作家の立花隆さんが、人類のさらなる進化をもとめて子供たち

にメッセージを贈っています。

 地球は太陽なしには生きられない。太陽との関わりの中で、人間の存在を支えている地球環境は

針の上にやっと立っているといってもいいくらいに、微妙なバランスの上に立っていることが地球科

学生態学に関する研究が進むにつれて近年ますます明らかになってきました。

 そこで、あらゆる惑星の中で最も地球に似た惑星である火星を人類の生息できる環境にかえよう

という大がかりな計画が、今、専門家の間で真剣に検討されつつあるそうです。

 人類を地球生物から宇宙生物へと進化させるか。それとも永遠の地球生物にとどめておくべきか。

どちらを選ぶかは人類自身に任されています。水中と陸地を行き来する両生類ではなく、さらに一歩

進化し、私達にたどりつく陸上生物が現れたように、地球と宇宙を行き来する宇宙両性類ではなく

地球の外へ外へと生きる場所を拡大していく宇宙人になるべきです。

 

 NASAアメリカ航空宇宙局では、その豊富な栄養分から、Quinoa(キノア、キヌア、キンワ)を

「21世紀の主食」と賞賛し、宇宙食として採用しています。元々は古くから南米のアンデス山脈地帯

の雑穀です。いずれは、Quinoaが銀河系のどこかの惑星で栽培される日が来るかもしれませんね。

 

 

 

日本の食事が変わった日

flour 001.jpg 今日 8月14日は、1950年日本政府が「パン完全給食実施」を発表した日です。

私もパンと脱脂粉乳の給食を体験した世代です。牛乳は中学に入学してからでした。

 「共生の恩恵」でお伝えしましたが、皇居の水田で「お田植え」をされ、

天皇陛下自ら、収穫されたお米などを神前にお供えする宮中儀式「新嘗祭」をはじめとして

日本人は米作りを通じて、生活、文化、社会、政治、芸能、思想、行動様式がつくられてきました。

 朝食、夕食の準備 ができた母は「ご飯が出来たよ」と呼びかけてくれました。

1日3回の食事のうち、1回が小麦でできたパンにかわる。体をつくる食べ物がかわる。特に、何千

年も受け継がれてきた主食の変化は日本人の食事の革命でした。

 

 日本人は数千年の昔から、穀物を常食としてきた「穀食民族」です。とりわけ、他の穀物よりも

おいしいお米は大切に作られてきました。

奈良、平安時代は、お米を「税」として徴収する制度ができたため、上流階級では、5分搗き、7分搗

き、さらに、白米にまで精米して食べる習慣が定着したそうです。

その結果、足にむくみが出たり、足の神経が麻痺して歩行困難になる「脚気」が頻発するようになっ

たそうです。

 

症状が進行すると、脚部から全身の異常へ広がります。無気力、全身の倦怠感、眠気、嘔吐、錯乱

意欲減退しうつ状態になります。

脚気は全身の神経障害の病気に広がり、心臓を取り巻く神経の働きが鈍り、心不全に至ります。

原因は、精米することでビタミンB1が不足するからです。

 

 徳川13代将軍家定、14代家茂は脚気が原因で亡くなったといわれています。

精米の常食で脚気は上流階級から発生し、長く悩まされたようですが、雑穀主体の庶民には、ほと

んど発病はなかったといわれています。

 

江戸時代も平和な時代が続き、元禄の頃になると江戸では、衣食に楽しみを求め、白米を食べる

習慣が庶民の間で広まり、とたんに体の不調を訴える者が続出したそうです。

地方から来た江戸勤務の武士は馬に乗れず、丁稚小僧も階段を登れなくなるといった状態が

国に帰って、玄米、雑穀を食べるとたちまち症状は回復して、元気を取り戻す。

当時、「脚気」を地方では「江戸病い」と呼ばれたそうです。

 

 明治になり、白米常食、「脚気」は江戸から地方都市へ広がりました。

特に、軍隊内での「脚気」の発症は顕著だったといわれています。

日清戦争で戦死者364人、脚気病死者4064人

日露戦争で戦死者85600人 脚気病死者27800人(脚気患い25万人)

銃を持ってもまともに行進出来ず、酒酔いのような状態で戦ったといわれています。

当時、特に陸軍では、「脚気」は細菌による感染症と考えられていたので、その対処法にも

いつ感染するかわからないという恐怖心が常にあったようです。

 

 大正末期になって、「脚気」はお米の精米に問題があったと結論づけられました。

ただし、精米度で玄米、7分搗き、胚芽米の3派に分かれました。

この時点で、白米が必要と主張した医学者、栄養学者はさすがにひとりもいなかったようです。

 

 

 しかし、日本の敗戦となった第2次世界大戦の混乱に乗じ、白米が国の定める法定米に

なってしまいました。

当然「脚気」の再燃を懸念した政府は、白米を中心とした新しい栄養改善策として、小麦を

白米と同様な扱い方をするとう前提で導入、動物性食品(肉、卵、乳製品、魚介)、油脂類

大豆製品、野菜類を多く摂るように、指導、教育が行われました。

 

 その結果、学校給食にパン、乳製品の導入が始まりました。

そして、これらの実施においては、当時、売り先を失い、買い手をさがしていたアメリカの

余剰生産穀物があてがわれました。

 

その後の経済発展とともに、元禄時代の江戸庶民のように豊か暮らしを謳歌し続ける現代人

には「脚気」以上の様々な難病とのお付き合いが待っていました。

そして、食物自給率も低下し続けています。

 

 

 

「三里四方の食の福」は何処へ

IMG_6807.jpg 今日7月30日はヘンリーフォードの誕生日。

1863年7月30日にアイルランド系移民の彼はアメリカ、ミ

シガン州の農家に生まれました。

 

幼少期から機械いじりを趣味としていた彼は、1903年6月

16日に自動車メーカー「フォードモーターカンパ二ー」を創

設、一台一台車を作っていた時代に、画期的な量産システ

ムを導入しました。1918年頃にはアメリカで保有される

自動車の半分はフォード社が占めるほど普及しました。

 

フォード社の設立された1903年は、その後、拡大する大量輸送時代の到来に欠かせないもうひと

つの出来事がありました。

アメリカ オハイオ州の牧師の息子として生まれ自転車販売店を営んでいたライト兄弟は、世界初

の動力飛行を成功させました。

 

1903年は馬車から車へ、船から飛行機へと移動、運搬手段が代わる記念すべき年でした。

しかし、良いことばかりではありません。これらの道具は、その後、争いごとの兵器としてもそれぞれ

進化していきました。

 

ほぼ100年経った今、私たち日本人の暮らしも大きく様変わりしました。

世界中のおいしいもので賑わう日本人の食卓では、代々受け継がれてきた伝統食は「粗食」扱いに

なっても無理はありません。

 

ただ、かつて、がん、脳卒中、心臓病の「成人病」の低年齢化によって「生活習慣病」と呼称が変わ

った頃から、生活の柱である「食生活」の質と量の改善が見直されています。

 

昔から「三里四方のもの食えば病知らず」「腹八分目の医者いらず」といわれてきました。

マクロビオティックにも、仏教で使われる「身土不二」という言葉を使います。

季節、その土地柄に合った食べ物が体にとって自然な食べ物で、病気になりにくいという考えです。

 

 

 晩年、ライト兄弟の弟オービルは、飛行機を作ったことを後悔している手紙を、自動車王ヘンリー

フォードに送っています。

1943年開催された、アメリカ特許局設立の150周年記念に招待され、「100年間の10大発明」

に自ら発明した飛行機を選択していません。

また、晩年に原子爆弾の投下に飛行機が利用されたことを、最後まで悔やんでいたということです。

 

 

 

 

 

 

3月

黒米入り玄米リゾット

たらの芽と蓮根のフリット

つぶし豆ときのこの香草パン粉和え

里芋ポタージュ

4月

筍玄米炒飯

八宝菜

蒸し野菜の豆鼓ソース和え

海藻スープ

5月

野菜玄米海苔巻き

青菜とひよこ豆のグラタン

春キャベツとスナップエンドウの梅風味サラダ

きのことじゃが芋の呉汁

2月

  からみ玄米餅

  きのこと春菊のかき揚げ

  蕪と長芋のおから和え

  白菜と南瓜のシチュー

  

1月

  八宝玄米がゆ

  焼き白菜と里芋の柚子風味和え

  がんもどきと小松菜の含め煮

  根菜蕎麦がき汁

 

12月

  かやく玄米ごはん

  厚揚げと青菜のナムル

  根菜味噌豆乳汁

  コーンムースのフルーツシロップがけ

共生の恩恵。

  少しご報告が遅れましたが、友人の手伝いで梅雨に植えた我が苗は、立派な稲穂に
成長いたしました。

 マクロビオティックといえば「玄米」ですね。古来、日本人は食べ物を神様からの
授かりものとして大切に扱われてきました。「いただきます」「ご馳走様」は神様、
食への感謝の言葉です。
 第二次世界大戦後、日本を管理したGHQは日本の国威発揚を恐れ、伝統行事を改名
させました。そのひとつである「勤労感謝の日」は元来、天皇陛下が自ら行う宮中儀式
「新嘗祭(にいなめさい)」が行われる日を全国民が祝う日でした。皇居の水田で
「お田植え」をされ自ら収穫されてお米などを神前にお供えする大切な一日でした。

 このように、日本人の大切にしてきた季節感、美意識が薄れてきた原因は、さらに
1873年・明治6年まで逆のぼります。諸外国に閉鎖的だった江戸幕府から開放された
明治政府が国際化の第一歩となる新しい暦である「グレゴリオ暦」を導入したからです。
季節毎の行事をずれのある新暦で行うと少し違和感があります。旧暦の早め月が沈む
上弦の月の頃の七夕では織姫、彦星が見えるのですが、現在の新暦の七夕では梅雨に
あたり、天の川が見にくくなります。新暦の正月に届く「迎春」の文字にはいつも
違和感がありました。
 精度と合理性を兼ね備えた新暦は国際化社会には不可欠です。しかし、自然に則した
生活、特に食べ物の季節感がなくなって久しいです。春には「桜餅」「木の芽和え」
「菜飯」が、夏には「麦」「蕗」「筍飯」等の季語があったように、旬の食べ物を
いただき、その季節に適応できる身体に調節できる古来から伝わる食習慣をもう一度
見直す時ではないでしょうか。


ine1.JPG慣行農法(一般に行われている農法)と違い苗の列の間が広くあいています。
この空間が実は大切。
理由のひとつは稲が精一杯分蘖(ぶんけつ)してくれるように。分蘖とは茎の根に近い
節から新しい茎が発生することです。6年目に入って、やっと目標の半ば25本にまで
分蘖してくれたそうです。
もうひとつの理由は稲と共生している様々な虫たちが暮らし易くするためだそうです。


ine2.JPG稲よりも大きく育った雑草は一列おきに刈ります。
刈らない雑草は虫達の棲家として残すためだそうです。

ine3-1.jpg嬉しそうに、のびのび育つ稲です。

ine4-1.jpg8月下旬、稲の穂が出はじめて1週間が経ちました。
平らな一粒一粒が少しづつ膨らんでお米になります。


ine5-6.jpg恩恵。


ine7.JPG古代米のわらはとてもかたいので縄なんかとても編めないそうです。
今年はお知り合いに、正月用の締め飾りと草履を作られたそうです。残ったわらは
ゆっくり分解して土に戻ってほしいので、細かく刻むことあえてしないそうです。


ine8.JPGおすそわけ。黄色の人参は沖縄の「島人参」、桃色は「三日月大根」。
あっという間にお腹に収まりました。